ペプシコーラ 12オンス 1940年代の瓶 [ペプシコーラ]
ペプシコーラ 12オンス 1940年代の瓶です。
ペプシコーラの日本本土における本格的な販売の始まりは1956年。今回ご紹介する瓶は、まだ日本で販売開始する前の1940年代のものです。
終戦直後に駐留米軍が持ち込んだものですが、彼らのコーラ好きは相当なものだったようで、わざわざコカ・コーラ社の製造設備の一部を日本に持ち込んで製造までさせていました。基地内のみならず、米軍の出入りするバーやボウリング場等で限定的に販売され、当時のコカ・コーラ瓶はよく見つかります。
ところがこれがペプシコーラとなると殆ど見つかりません。おそらく彼らが本国から直接持ち込んだ物以外は出回らなかったものと思われます。今回ご紹介する瓶はある山中の土の中から発見しましたが、そこは特に米軍基地とは関係のない場所。果たしてどのようにしてそこに投棄されるに至ったのか・・・?ペプシコーラも、ごく一部は基地から外に流通していたのでしょうか。
本来は下部にラベルが貼り付けられていますが、長らく地中に眠っていたため、この瓶では失われています。
容量は12オンスで、その後国内で販売された8オンスや6オンス(180ml)、6.5オンス(192ml)と比較するとだいぶ大きい瓶です。下の画像は6オンス瓶との比較です。
上部には細かいPEPSI-COLAのエンボスが縦に入ります。このデザインは1956年の国内販売時にも踏襲され、1964年まで使われました。
参考:国内販売開始時の瓶
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2021-01-04
【ペプシコーラ 12オンス 1940年代】
ペプシコーラ 192ml 1964年後半〜1965年前半 [ペプシコーラ]
ペプシコーラ192ml 1964年後半〜1965年前半の瓶です。
この瓶より、それまでの瓶に比べてデザインが大きく変更になりました。
1964年から製造されているようですが
1964年銘の瓶はほとんどが古いデザインのものばかりのため
この新デザイン瓶は1964年の暮れから製造されたと推測されます。
ただし、翌年の1965年には早くも次のデザインの瓶が登場するため
1964年暮れ〜1965年初頭の、ごくわずかな間にしか
作られなかった、非常に珍しい瓶ということになります。
ちなみに画像の瓶は1965年の製造です。
1965年後半以降の瓶との比較(左が今回ご紹介している1964年後半〜1965年前半の瓶)。
左のほうがわずかにフォントが太く、TRADEMARK REGD.の表記がある。
白丸の下に小さく書かれた容量表記も192ML.と大文字です。
こちらはカタカナロゴ側。
「登録商標」の文字はまだなく、フォントも扁平な独特なもの。
これが1965年後半以降の瓶ではこうなる。
このデザインの瓶でよく見られる「登録商標」の表記が追加になり
フォントも縦に長くなった。
(プリントが綺麗なものもあるのですが、保管場所が遠く
このコロナ下で取りに行けず、汚いもので申し訳ありません・・・)
ちょうどこの瓶が登場した頃、1964年の11月に
473mlファミリーサイズの瓶が発売されています。
ところが、翌1965年にはコカ・コーラに対抗して
500mlに瓶を作り直していることから、
そのタイミングに合わせてこの192mlの瓶のデザインも変わったのだろうと推測されます。
(今回ご紹介した瓶が製造されたのは
473mlファミリーサイズ瓶が製造された時期と一致)
【ペプシコーラ 192ml 1964年後半〜1965年前半 埼玉県秩父市にて入手】
ペプシコーラ 473ml 初代ファミリーサイズ [ペプシコーラ]
ペプシコーラ 473ml 初代ファミリーサイズ瓶です。
1960年代に入り、雨後の筍のごとく様々なメーカーが
コーラ飲料に参入する中で
国内におけるコーラ飲料の覇権争いはいよいよ熾烈となり、
トップを走るコカ・コーラの後をペプシコーラが追う状況でした。
1964年の時点でのシェアは、コカ64.5%、ペプシ19.8%、
ローヤルクラウン4.0%、ミッション3.4%。
コカ・コーラが大手財閥を味方につけて
全国のボトラー網を早期に整備・展開できたのに対し
ペプシコーラは二の足を踏んでおり
すでに3倍のシェアを奪われたこの年が
ペプシにとってはまさにシェア奪還の最後のチャンスでした。
その起死回生策として、1964年11月に発売されたのが
この473ml(16オンス)のファミリーサイズです。
瓶代を除く中味60円という破格の価格設定で、
大瓶戦略で一気にシェアを奪う予定でした。
ところが、そのわずか1ヶ月後の1964年12月に
コカ・コーラがホームサイズと称して
ペプシより27ml多い500mlサイズを同価格で発売してしまったのです。
当然、消費者はコカ・コーラに流れ、
すぐにペプシも500mlに瓶を作り直して再発売をしたものの時すでに遅し。
大瓶戦略もコカ・コーラの勝利に終わり、その差はいっそう開いていったのでした。
参考:1965年以降に作り直されたペプシコーラ500ml瓶
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2009-10-03-5
1971年にコカ・コーラの500ml瓶の破裂問題が発生するものの
もはやペプシは挽回できるほどの体制になく
そこでも逆転のチャンスを逃してしまいました。
(1965年以降の500ml瓶の作り直しが思うように進まず、
瓶の回収率も悪かったために作りたくても作れなかった模様)
ペプシコーラの将来を皮肉にも運命付けてしまった
この悲劇の473ml瓶ですが
販売されたのはわずか数ヶ月ということと
500ml瓶への移行によりすぐに廃棄されてしまったことから
この令和の時代に残っていること自体が奇跡の瓶。
しかもこれが、政令指定都市の横浜市内に約60年間も
誰にも見つからずに転がっていたのだからすごい。
英文字ロゴ部分のアップ。
このデザインでTRADEMARK REG'D.の表記があるのは
1964年製の瓶の特徴。1965年以降の500ml瓶では丸にR表記となる。
ロゴの下には「473ML.」の容量表記。
1965年以降は首部に白文字で500mlと大書きになり、Family Sizeの表記も加わるが
この初代瓶ではまだそれらの表記はない。
カタカナロゴ部分のアップ。
1965年以降の500ml瓶にはある「登録商標」の文字はまだない。
カタカナロゴ自体も、1965年以降のものと比較して扁平なフォントである。
胴部には473MLのエンボスが。
底部。1964年製を示す64のエンボスがある。
【ペプシコーラ 473ml 初代ファミリーサイズ 神奈川県横浜市にて入手】
ペプシコーラ 180ml 1962年〜1964年頃 2色刷り [ペプシコーラ]
ペプシコーラ 180ml 1962年〜1964年頃 2色刷りの瓶です。
ペプシコーラの日本本土における本格的な販売の始まりは、
1956年に設立された関東地区の日本飲料が最初です。
ライバルであるコカ・コーラが大手財閥系企業の手により設立した
各地のボトラーで急拡大したのに対し、ペプシコーラは
非財閥系企業の手による拡大だっため、当初より遅れをとっていたようです。
以前、その日本飲料が1957年に本土で販売を開始した際の
3色刷りの瓶を紹介しましたが、今回ご紹介する瓶は赤・白の2色刷り。
1961年より日本国内での販売が自由化されたことで
コーラは庶民の身近なものとなり、一気に需要を伸ばしました。
その拡大期真っ只中の、1962年〜1964年頃にかけて製造されたのがこの瓶です。
参考:1961年の発売当初の3色刷りの瓶
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2021-01-04
裏面上部の日本語ロゴは、1962年製造分は独特な手描き風カタカナフォント。
1964年製造分は70年代に流通した瓶で見られる直線的なフォントです。
(1963年製造分は過渡期のため両方のフォントが混在)
【ペプシコーラ 180ml 1962年〜1964年頃 2色刷り 千葉県安房郡にて入手】
ペプシコーラ 180ml 1958年〜1961年 3色刷り [ペプシコーラ]
ペプシコーラ 180ml 1961年 3色刷りの瓶です。
戦前〜戦後すぐにかけて、すでに国内にコーラは入って来ていましたが
いずれも滋養目的や米軍向けとして米国から輸入されたものでした。
ペプシコーラの日本本土における本格的な販売の始まりは、
1956年に設立された関東地区の日本飲料が最初です。
ライバルであるコカ・コーラが大手財閥系企業の手により設立した
各地のボトラーで急拡大したのに対し、ペプシコーラは
非財閥系企業の手による拡大だっため、当初より遅れをとっていたようです。
今回ご紹介する瓶は、
その日本飲料が1957年に本土で販売を開始して間もない黎明期のものです。
もともと8オンスの瓶で販売開始されたものの、
すぐにこの6オンス(180ml)に作り替えたようで
この瓶の作り替えも足枷となり
コカ・コーラとの差が開く原因になってしまったようです。
この時点で、すでにコカ・コーラはペプシの2倍の出荷量がありました。
1961年にコーラの原液の輸入が自由化されるまでは、
既存の飲料業界の反発等もあって、バーやボウリング場などにおける
米軍関係者向けの出荷が中心だったようです。
この黎明期の瓶の特徴は、白、赤、青の3色刷りであること。
白、赤の2色刷りの似たようなデザインの瓶もありますが
この3色刷りの方が先に登場しています。
(3色刷りは1958年と1961年の刻印、2色刷りは1962年〜1964年の刻印を確認)
瓶の上部には複雑なエンボスが。PEPSI COLAの文字が見えます。
1958年製の瓶の裏面上部にはJAPANの表記。本土で流通していた瓶の証です。
沖縄で流通していたものは「RYUKYU ISLAND」の表記になります。
1961年製の瓶の裏面上部には、独特な手描き風フォントのカタカナロゴ。
2色刷りの瓶では1962年製造分は同様の手描き風フォントですが
1964年製造分は70年代に流通した瓶で見られる直線的なフォントになります。
(1963年製造分は過渡期のため両方のフォントが混在)
1958年製の瓶の下部。1961年以降の瓶とは、内容や改行位置が異なります。
底部。1958年製造を示す「58」の刻印がある。
この瓶は私が中学生の時に出かけた高原教室(キャンプを中心とした宿泊行事)の際、
富士山の麓の青木ヶ原樹海で上部が割れて欠損したものを手に入れ、
初めて存在を知りました。
あれから25年が経った現在、割れていない完全なものを見つけようとしましたが
これがなかなか見つからない。
コーラが日本に普及する草創期の瓶のため、馴染みがなくそもそもの流通量が少ない。
かつ、ペプシコーラの瓶はマイナーチェンジするたびに瓶の形状が変わったため
古い瓶は流用されずに破棄されてしまう、等の理由が挙げられます。
(コカ・コーラは形状が変わらないため、稀に古い瓶が流通することがある)
今回、とある山中で25年の時を経てようやく入手ができましたので
ここにご紹介させていただきました。
【ペプシコーラ 180ml 1958年〜1961年 3色刷り 千葉県安房郡にて入手】
ペプシコーラ200ml 2015年頃〜 [ペプシコーラ]
ペプシコーラ200ml 2015年頃〜の現行ボトルです。
かつてペプシコーラの瓶は、白+赤+青の3色の印刷でしたが
コストダウンを目的として、2007年頃より白一色の瓶が登場しました。
(2009/10/3の投稿参照)
そこからさらにコストダウンを図るべく、
既に「サントリー烏龍茶」で導入されていた
透明瓶にラベルを貼る仕様が2015年頃より登場しています。
それがこの瓶で、コストダウンもここまで来たか・・・という印象です。
このペプシコーラのほかに、
「サントリーエード」「サントリー烏龍茶」が
2018年現在この仕様にて流通しています。
伝統的な緑色の瓶を使い続け、
さらにコカ・コーラzeroの専用瓶まで用意している
コカ・コーラ社の姿勢とは対照的です。
【ペプシコーラ200ml 2015年頃〜 東京都豊島区にて入手】
ペプシコーラ 1.5L [ペプシコーラ]
ペプシコーラ300ml [ペプシコーラ]
ペプシコーラ500ml 1980年代 [ペプシコーラ]
ペプシコーラ500ml 1965年〜1970年代 [ペプシコーラ]
ペプシコーラ500ml 1965年〜1970年代のボトルです。
1960年台中頃、既にペプシコーラは
国内のコーラ飲料シェアにおいて
コカ・コーラに大きく水をあけられていました。
その起死回生策として、1964年11月に発売されたのが
この473ml(16オンス)のファミリーサイズです。
瓶代を除く中味60円という破格の価格設定で、
大瓶戦略で一気にシェアを奪う予定でした。
参考:ペプシコーラ473ml 初代ファミリーサイズ瓶
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2021-06-30-4
ところが、そのわずか1ヶ月後の1964年12月に
コカ・コーラがホームサイズと称して
ペプシより27ml多い500mlサイズを同価格で発売してしまったのです。
当然、消費者はコカ・コーラに流れてしまいました。
そこでペプシも500mlに瓶を作り直して再発売をしました。
今回紹介している瓶がそれにあたりますが、時すでに遅し。
大瓶戦略もコカ・コーラの勝利に終わり、
その差はいっそう開いていったのでした。
1971年にコカ・コーラの500ml瓶の破裂問題が発生するものの
もはやペプシは挽回できるほどの体制になく
そこでも逆転のチャンスを逃してしまいました。
(1965年以降の500ml瓶の作り直しが思うように進まず、
瓶の回収率も悪かったために作りたくても作れなかった模様)
ちなみにこの写真のボトルはその1971年のもの。
実家のすぐ横に転がっていました。
瓶を集めるきっかけにもなった記念すべきボトルです。
【ペプシコーラ500ml 1965年〜1970年代 静岡県沼津市にて入手】