バャリースオレンジ 200ml 1950年代  [アサヒ]

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バャリースオレンジ 200ml 1950年代の瓶です。

バャリースオレンジは、1938年に
フランク・バヤリー氏の開発した新しい殺菌手法を用い
米国でゼネラルフーズ社より発売されました。

果汁飲料はその製造方法は単純そうに見えますが、
サイダーやラムネ等と異なり、生の果実を使用するために
腐敗をいかに克服するかが長年の課題でした。
日本でも戦前より研究が進められていましたが、
「飲料は透明で、成分を沈殿させてはならない」という決まりにより
腐敗問題以前に、果汁の透明化に苦心するあまり
なかなか普及が進みませんでした。

それが終戦後の1947年に法律が変わり透明化しなくてもよくなったこと、
1950年、進駐軍向けにバャリースが上陸したことで風向きが変わります。
1951年にさっそく当時の朝日麦酒が国内での販売権を獲得し
オレンジジュースブームを巻き起こします。
1952年にはリボンジュース、1953年にはミッションジュース、
1954年にはキリンジュース・・というように
雨後の筍のごとくオレンジジュースブランドが乱立しました。

この結果、1951年にはラムネの需要をあっさり抜き去り
1958年には長らく王者の地位にあったサイダーも抜いて
飲料需要の頂点に立ちます。
1964年にはサイダーに再び抜き返され、
1966年にはコーラにも抜かれることになりますが
現在に続くオレンジジュースという一大ジャンルを築いた元祖は
まさにこのバャリースというわけです。

今回ご紹介する瓶は、そのバャリースの国内発売当初のもの。
画像の左側が発売当初の1950年代のもので
右側が1960年代のものですが、違いがわかりますでしょうか??

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1950年代のものは、ロゴ下の内容量表記が6 3/4FL.OZと
米国で主流のオンス表記になっています。

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胴部のエンボスもオンス表記。

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一方、1960年代以降の瓶では内容量表記が200ccとなります。

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1960年代の瓶の胴部エンボス。表記は200ccになった。

バャリースの瓶は、ACL印刷を導入したという点でも画期的です。
それまではガラスのエンボスでデザインをするしかなったのが
印刷によりデザインの幅が大幅に広がっていきました。
現在でもほぼ同じデザインで流通していますが、
コカ・コーラの瓶と同様にそれだけ完成されたデザインだったというわけです。

【バャリースオレンジ 200ml 1950年代 千葉県安房郡にて入手】
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三ツ矢サイダー 180ml 1950〜1960年代 [アサヒ]

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三ツ矢サイダー 180ml 1950〜1960年代の瓶です。

三ツ矢サイダーの瓶の容量は現在は200mlですが
明治時代の発売以来、平成初期に至るまで340mlサイズが主流でした。

もともとは340ml瓶に入ったサイダーを、
コップに注いで家族で分け合って飲むスタイルだったのが
一人一本、個人で飲むスタイルに変化し
200ml瓶が登場したのは1970年になってからのこと。

参考:三ツ矢サイダー200ml 1970年代初頭
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2018-05-05

上記で紹介している瓶や、1970年に発売された
「三ツ矢サイダーシルバー」が小瓶の元祖と思われていたのですが
どうやら1950年代にも、小瓶が出回っていたようです。

今回紹介する瓶がそれで、
アサヒ飲料の公式資料にも登場しない謎の瓶。
1950年代の瓶が出土する場所から掘り出したことから
年代はほぼ間違いないものと思われます。

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ネック部には、1950年代の340ml瓶同様に三ツ矢のシンボルマークが。

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胴部の下には「MITSUYA」の英文字エンボス。
これは他の三ツ矢サイダー瓶には見られない特徴です。

【三ツ矢サイダー 180ml 1950年代〜1960年代 千葉県安房郡にて入手】
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三ツ矢サイダー 1880年代?〜1921年 [アサヒ]

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三ツ矢サイダー 1880年代?〜1921年の瓶です。

言わずと知れた老舗ブランドです。
三ツ矢サイダーは、兵庫県川西市に存在した平野鉱泉を用いて
三菱財閥系の三菱商会が1884年(明治17年)に
「平野水」という名で製造をしたのが始まりです。

その後1899年に三ツ矢印を商標として登録をしますが、
平安時代、源満仲が住吉大社のお告げに従い
3本の矢を放ったところ、この平野の地に刺さり城を建てたことが
三ツ矢サイダーという名の由来です。
その歴史はもうすぐ140年、
現在残る日本の清涼飲料水の中でも屈指の長い歴史を誇ります。

今回ご紹介する瓶は、その発売当初にごく近い明治時代〜大正時代に作られた瓶です。
その当時の販売主体は三ツ矢平野礦泉、帝国礦泉へと代わり
1921年に会社が日本麦酒礦泉に買収されるまで
この瓶が使用されたものと思われます。

1921年以降の日本麦酒礦泉時代の瓶はこちら
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2021-01-03-1


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瓶の底には三ツ矢マークのエンボスが。
このエンボスのパターンは時代によって何種類か存在しているようです。


とある山中で、木の根元にふと輝く緑の光を見つけ
数十年もその根に取り込まれていた瓶を引っ張り出してみると
この三ツ矢サイダー瓶が出てきました。
廃棄されて100年以上経っていたものと思われますが
うまく木の根に取り込まれたことで、奇跡的に
土中深くに埋もれることがなかったのかもしれません。
私が持っている瓶の中で、最も古い瓶です。

【三ツ矢サイダー 1880年代?〜1921年 千葉県安房郡にて入手】

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三ツ矢サイダー 340ml 1933年〜1940年代 大日本麦酒時代 [アサヒ]

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三ツ矢サイダー 340ml 1920年代〜1930年代 大日本麦酒時代の瓶です。

三ツ矢サイダーについての詳細はひとつ前の記事を参照してください。
参照:三ツ矢サイダー 340ml 1920年代〜1930年代 日本麦酒鑛泉時代
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/archive/c2300733128-1

今回紹介する瓶は、ひとつ前の記事で紹介した日本麦酒鑛泉から
1933年に大日本麦酒に販売主体が変わった後の三ツ矢サイダーの瓶です。
大日本麦酒は、戦後のGHQの指示による過度経済力集中排除法に基づいて
1949年に解体され、三ツ矢サイダーの製造は朝日麦酒(アサヒビール)が受け継ぐ事になりますが
この瓶自体は戦後物資供給が安定するまではしばらく使用され続けたものと思われます。
この瓶も昭和30年代のゴミが多く発見される区域で見つけたものです。

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瓶の上部には大日本麦酒の略称であるDNBのエンボス。

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瓶の下部には大日本麦酒株式會社のエンボス。
日本麦酒鑛泉時代のものにはあった三ツ矢マークはありません。
大日本麦酒は現在のアサヒビールとサッポロビールの前身であることから
現在はサッポロ飲料から販売されているリボンシトロンも
当時はこの瓶を使用していたため、特定の商標を入れることを避けたのでしょう。

実際に出荷される際には、胴部に三ツ矢シャンペンサイダーや
リボンシトロンと書かれたラベルが貼られていました。


【三ツ矢サイダー 340ml 1933年〜1940年代 大日本麦酒時代 千葉県安房郡にて入手】
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三ツ矢サイダー 340ml 1920年代〜1930年代 日本麦酒鑛泉時代 [アサヒ]

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三ツ矢サイダー 340ml 1920年代〜1930年代 日本麦酒鑛泉時代の瓶です。

言わずと知れた老舗ブランドです。
三ツ矢サイダーは、兵庫県川西市に存在した平野鉱泉を用いて
三菱財閥系の三菱商会が「三ツ矢平野水」という名で製造をしたのが始まりです。
平安時代、源満仲が住吉大社のお告げに従い
3本の矢を放ったところ、この平野の地に刺さり城を建てたことが
三ツ矢サイダーという名の由来です。

その後、三ツ矢平野礦泉、帝国礦泉と販売主体が代わり
1921年に帝国礦泉が日本麦酒鑛泉に買収されます。
今回紹介する瓶は、この日本麦酒鑛泉時代の瓶で、今から約100年ほど前のものです。
1933年に大日本麦酒となるまで製造されましたが、
戦後物資供給が安定するまでは使用され続けたものと思われます。
この瓶も昭和30年代のゴミが多く発見される区域で見つけたものです。

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瓶の下部には三ツ矢マークと日本麦酒鑛泉株式會社のエンボス。


実際に出荷される際には、胴部に三ツ矢シャンペンサイダーと書かれた
ラベルが貼られていました。


【三ツ矢サイダー 340ml 1920年代〜1930年代 日本麦酒鑛泉時代 千葉県安房郡にて入手】
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三ツ矢サイダー 200ml 1970年代初頭 [アサヒ]

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三ツ矢サイダー 200ml 1970年代初頭の瓶です。

三ツ矢サイダーをはじめとしたサイダー瓶は
戦前より340mlが一般的でした。

かつてはこれをケース単位で酒屋より購入し
家庭で皆で分け合って飲んでいたものが
高度経済成長期の生活スタイルの変化により
1人で飲みきれるサイズの需要が高まりました。
そこで、当時幅をきかせつつあったコカ・コーラやファンタ等のサイズと同じ
200mlにサイズダウンしたのがこの瓶です。
1970年に「三ツ矢サイダーシルバー」という製品が200mlで登場し
今回紹介した瓶もその頃と前後して販売されたものと思われます。
ライバルのキリンレモンも、同時期に
200mlサイズのキリンレモンクレールを発売しています。

自販機網の拡大を急いだコカ・コーラ社と異なり
三ツ矢サイダーの販売元のアサヒビールは
従来の酒屋ルートの販売にこだわり続けたため
しばらく普及はしなかったのですが
デザインこそ違えど、現在ではこの200mlがようやく主流になりました。
(340ml瓶も最近まで残っていましたが、2000年〜2010年頃に終売となった模様)

この写真の瓶は他社に転用されて、みかん水として第二の人生(瓶生?)を送る姿です。
三ツ矢サイダーの340ml瓶は地方零細メーカーのサイダー瓶として
広く流用されましたが、この200ml瓶が流用されている例はそれほど多くありません。

【三ツ矢サイダー 200ml 1970年代初頭 大阪府門真市にて入手】


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三ツ矢サイダー 200ml [アサヒ]

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三ツ矢サイダー 200mlボトルです。

三ツ矢サイダーを初めとしたサイダー各社は
長らく340ml瓶を流通させていましたが、
消費形態が家族→個人に移行したことにより
1980年代になり200ml瓶の発売を開始しました。

ライバルのキリンレモンが
キリンレモンクレールとして200ml瓶を発売したのもこの頃です。

この200ml瓶は現在も業務用を中心に広く流通しており
三ツ矢サイダーとしては唯一瓶入りで流通しています。

【三ツ矢サイダー 200ml 静岡県沼津市にて入手】

三ツ矢サイダー 340ml 1972年〜 [アサヒ]

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アサヒビール 340ml 1972年〜のボトルです。

1972年より流通していた瓶で、
ラベル貼り工程の省略と、他社への流出を防ぐことを目的として
完全印刷された瓶になりました。

引き続き340mlの容量で家庭向けに出荷されていましたが
消費形態の変化(酒屋にケース単位で注文しなくなり、
1本ずつ個人で購入する時代になった)ことで
次第に200ml瓶や缶に主役の座を奪われていきました。

1999年頃までは生産されていたようですが、
その後はぱったりと姿を見かけなくなってしまいました。

【三ツ矢サイダー 340ml 1972年〜 静岡県沼津市にて入手】

三ツ矢サイダー 340ml 1960年代〜1972年 [アサヒ]

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三ツ矢サイダー 340ml 1960年代〜1972年のボトルです。

初代と比較して、エンボス加工のデザインが
三ツ矢マークから「三ツ矢サイダー」という文字に変更になりました。

日本を代表するサイダーとして大量に生産された瓶で、
1960年頃〜1972年まで広く流通していました。
アサヒビールの酒販店ルートを活用し、
ケース単位で各家庭に酒屋が宅配していました。
当時は「個人で飲む」というよりは「家族みんなで飲む」ことが主流で
340mlという少し大きめの容量もそれを反映しています。

当時は胴部分に黄色い地に赤い三ツ矢マークを配したラベルを貼っていましたが
このデザインを真似たラベルや名前を似せたラベル(三ツ輪サイダー等)の
サイダーが当時は大量に出回っていました。
しかし大らかだった当時は、特にアサヒ側もお咎めはしなかったようです。

また、この瓶は大量に作られたために
全国に存在した零細サイダーメーカーに流出し、
各メーカーが自分のブランドのラベルを貼って出荷していました。
中には「三ツ矢サイダー」というエンボス文字をご丁寧に削って
完全に自社瓶にして出荷していたメーカーもあったようです。

現在でもわずかながらにこういった手法でサイダーを生産している業者が
地方にはいくつか残っていますが
いずれも高齢化と瓶の回収困難により生産を継続するのが難しくなっているようです。
そもそも、1960年代の瓶が現在も現役で流通していること自体がすごいことです。

【三ツ矢サイダー 340ml 1960年代〜1972年 静岡県沼津市にて入手】

三ツ矢サイダー 340ml 1950年代 三ツ矢マーク入り [アサヒ]

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三ツ矢サイダー 340ml 1950年代 三ツ矢マーク入のボトルです。

三ツ矢サイダーについての詳細はひとつ前の記事を参照してください。
参照:三ツ矢サイダー 340ml 1920年代〜1930年代 日本麦酒鑛泉時代
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2021-01-03-1

大日本麦酒が戦後のGHQの指示による過度経済力集中排除法に基づいて1949年に解体され
三ツ矢サイダーの製造は朝日麦酒(アサヒビール)が受け継ぐ事になりました。
参照:三ツ矢サイダー 340ml 1933年〜1940年代 大日本麦酒時代
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2021-01-03-2

今回紹介する瓶はその際に製造が開始されたもので、1957年製造の銘があります。
1960年頃まで製造されたものと思われます。

この瓶の特徴は、大日本麦酒時代にはなくなっていた
三本の矢のおなじみの「三ツ矢マーク」が復活し
エンボス加工で上部に刻印されているのが特徴です。
当時は紙ラベルが胴部分に貼られて出荷されていました。

【三ツ矢サイダー 340ml 1950年代 三ツ矢マーク入り 静岡県沼津市にて入手】





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