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ツクバ スペシャルドリンク 200ml [その他マイナーブランド]

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ツクバ スペシャルドリンク 200ml瓶です。

ツクバスペシャルドリンクは、茨城県石岡市にある筑波乳業の製品です。茨城県内はもちろんのこと関東一円で瓶が見つかることから、かなり広範囲に渡って販売網を有していたものと思われます。現在では業務用乳製品や一般向けのアーモンドミルクのメーカーとして存続しています。
スペシャルドリンクという気になる名称ですが、一体どんな味のする飲み物だったのでしょうか??

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ロゴ部分のアップ。

【ツクバ スペシャルドリンク 200ml 神奈川県伊勢原市にて入手】
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パンチジュース(川崎飲料) 200ml [その他マイナーブランド]

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パンチジュース(川崎飲料) 200ml瓶です。

「パンチ」と名乗る飲料は当時様々なメーカーから出ていたようですが、これは川崎市の川崎飲料の製品で、神奈川県全域にわたり広く出荷されていたようです。ジュースと名乗っていることから、うそつきジュース問題が勃発する前の1960年代の製品と思われます。
川崎飲料では現在でもラムネや統一ブランドである「パレード」を生産しています。かつてはコーヒー牛乳やメロンソーダなど複数のフレーバーのパレードを製造していましたが、現在では居酒屋で割材として用いる無糖炭酸のみの製造となってしまいました。数少なくなったリターナブル瓶飲料の生産メーカーとして、これからも末長く愛され続けてもらいたいものです。

【パンチジュース(川崎飲料) 200ml 神奈川県伊勢原市にて入手】
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ペプシコーラ 12オンス 1940年代の瓶 [ペプシコーラ]

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ペプシコーラ 12オンス 1940年代の瓶です。

ペプシコーラの日本本土における本格的な販売の始まりは1956年。今回ご紹介する瓶は、まだ日本で販売開始する前の1940年代のものです。
終戦直後に駐留米軍が持ち込んだものですが、彼らのコーラ好きは相当なものだったようで、わざわざコカ・コーラ社の製造設備の一部を日本に持ち込んで製造までさせていました。基地内のみならず、米軍の出入りするバーやボウリング場等で限定的に販売され、当時のコカ・コーラ瓶はよく見つかります。
ところがこれがペプシコーラとなると殆ど見つかりません。おそらく彼らが本国から直接持ち込んだ物以外は出回らなかったものと思われます。今回ご紹介する瓶はある山中の土の中から発見しましたが、そこは特に米軍基地とは関係のない場所。果たしてどのようにしてそこに投棄されるに至ったのか・・・?ペプシコーラも、ごく一部は基地から外に流通していたのでしょうか。
本来は下部にラベルが貼り付けられていますが、長らく地中に眠っていたため、この瓶では失われています。

容量は12オンスで、その後国内で販売された8オンスや6オンス(180ml)、6.5オンス(192ml)と比較するとだいぶ大きい瓶です。下の画像は6オンス瓶との比較です。
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上部には細かいPEPSI-COLAのエンボスが縦に入ります。このデザインは1956年の国内販売時にも踏襲され、1964年まで使われました。

参考:国内販売開始時の瓶
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2021-01-04

【ペプシコーラ 12オンス 1940年代】


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ペンギンソフトドリンク 200ml [その他マイナーブランド]

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ペンギンソフトドリンク 200ml瓶です。

ペンギンソフトドリンクは、TAIYO INRYO(太陽飲料?大洋飲料?)という会社が製造していた飲料です。南関東一円で見つかることから、それなりに広範囲に出荷していたものと思われます。今回ご紹介している瓶は白一色印刷ですが、赤と白の2色印刷のものも存在します。時代は1960年代と思われます。

【ペンギンソフトドリンク 200ml 神奈川県鎌倉市にて入手】


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ピープルソーダ 210ml [その他マイナーブランド]

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ピープルソーダ 210ml瓶です。

ピープルソーダは、赤羽にあった福水社が製造していた飲料です。福水社では「ピープル」ブランドで幅広く商品展開していたようで、以前紹介したピープルシー、ハイピープルも同社の製品と思われます。都内を中心に、関東近辺に幅広く出荷していたようです。この瓶は1960年代〜1970年代にかけてのものでしょうか。

参考:ピープルシー 210ml瓶
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2021-02-09
参考:ハイピープル 210ml瓶
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2010-01-04-2

福水社は、その後社名まで「ピープル」に変更し、神奈川県に工場を設立し、90年代に流行した杜仲茶や健康飲料を全国に出荷する等、大規模経営に乗り出していたようですが現在ではその名を見かけません。

【ピープルソーダ 210ml 神奈川県伊勢原市にて入手】
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タカラサイダー 340ml 1950年代〜1960年代 [地サイダー]

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タカラサイダー 340ml 1950年代〜1960年代の瓶です。

ひとつ前の記事で紹介したタカラサイダーの戦後になってからの瓶です。

参考:明治〜大正期のタカラサイダーの瓶
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2022-02-13

同時期のサイダーの代表格、三ツ矢サイダーやリボンシトロンと同じ規格で作られた瓶で、三ツ矢が緑がかった瓶、リボンシトロンが透明の瓶が多かったのに対しタカラサイダーは青みがかった瓶を採用していました。

当時の中小のサイダーメーカーは三ツ矢サイダーの瓶を勝手に流用し自社のラベルを上から貼り付けて使用していましたがタカラサイダーはそのようなことはせずオリジナルの瓶で勝負をしていました。
その証として、しっかりと「タカラサイダー」のエンボスがあります。
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戦前は宝塚鉱泉、後に宝鉱泉という会社が製造をしていましたが、戦後になってからはみりんや宝焼酎、Kanチューハイで有名な京都の宝酒造がそのブランドを引き取った可能性があります。
確証は持てませんが、宝酒造が当時製造していたタカラビールとこのタカラサイダーを併記した看板や栓抜きなどがあることからその可能性が高いと思われます。
タカラビールの終売は1967年、ライバルのアサヒビールに敵視されたことが原因のようですが、タカラサイダーも同様にその頃なくなったのでしょうか。

ちなみのこの瓶は、一部が三ツ矢サイダー瓶と同様に中小メーカーに流れて再利用されました。厳密に言うと三ツ矢サイダー瓶とは少し規格が異なるのですが、なんとか同一の製造ラインに乗ることができたようです。今でも中小のサイダーメーカーをくまなく探せば、三ツ矢サイダー瓶に混ざってこの瓶が現役で活躍しているかもしれません。

【タカラサイダー 340ml 1950年代〜1960年代 千葉県安房郡にて入手】
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タカラサイダー 明治〜大正時代 [戦前の瓶(メジャーブランド以外)]

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タカラサイダー 明治〜大正時代の瓶です。

タカラサイダーは、明治42年に宝塚鉱泉合資会社が販売開始したサイダーです。
この宝塚市〜川西市に至る一帯は、三ツ矢サイダー、ウィルキンソンなど
現在に至るまで続く有名ブランドの発祥の地として知られ
良質な炭酸水が湧き出ていたようです。

今回ご紹介する瓶は、そのタカラサイダーの最初期の瓶と思われ
明治期〜大正期に出回っていたものです。
見た目は同時期の三ツ矢サイダーとそっくりです。

しかし、瓶底にはしっかりと「宝」のエンボスが。
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戦後のタカラサイダー瓶はこちらからどうぞ。
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2022-02-13-1

【タカラサイダ 明治〜大正時代 千葉県安房郡にて入手】

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チェリオ 296ml エンボス瓶 [チェリオ]

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チェリオ 296ml エンボス瓶です。

チェリオは1965年の発売以降
赤と白の2色印刷ロゴの瓶や、赤のみの1色印刷ロゴの瓶を使用してきました。
ところが、その定説を覆すエンボスロゴの瓶が存在していました。

私も山中で発見した時は印刷が剥げたチェリオ瓶か・・と思いましたが
そこにはまさかのエンボスロゴ。
未知の瓶の発見に、非常に驚いてしまいました。
底部には「67」の刻印があることから、1967年製です。

チェリオ本社にも問い合わせをしてみましたが、
チェリオ側にもこのような瓶の製造記録は残っていないとのこと。
担当の方も驚いていらっしゃいました。

そこから推測するに、この瓶が作られた可能性として以下が考えられます。

①試作瓶
 チェリオの国内販売に際し、試作された瓶である可能性。
 試作してはみたものの、ロゴの視認性が良くなく
 最終的には印刷瓶に切り替えて発売された。
 何らかの事情でその試作瓶の一部も市場に出回ってしまった。

②印刷瓶の供給不足による緊急生産瓶
 この瓶が生産された1967年前後は、コカ・コーラの需要が急拡大した時期。
 大量の瓶の発注に対しコカ・コーラの瓶の印刷が間に合わず、
 1964年〜1968年に印刷の必要のないエンボス瓶が緊急生産された。
 その影響でチェリオも印刷瓶が作れず、やむなくコカ・コーラ同様に
 エンボス瓶を緊急生産した。

瓶の製造年が1967年であることから、
①の発売時における試作瓶である可能性は低いですが
この謎の瓶について何かご存知の方がいらっしゃれば、情報をお待ちしております。

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▲ロゴ部分のアップ。

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▲下部には「296ML.入」の表記あり。
 コカ・コーラの同時期のエンボス瓶にも、同様の表記がある。
 「ML」を大文字で表記するのは1967年までは
 どのメーカーでも一般的でしたが、1968年頃より小文字表記が主流に。
 但し、チェリオでは1980年代になっても大文字表記を使う例もありました。

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▲見づらいですが、「67」のエンボスがある。
 エンボスが甘く、見方によっては「57」や「62」にも見えるが
 そもそもチェリオが1965年発売なので、その可能性は薄そう。

【チェリオ 296ml エンボス瓶 神奈川県足柄下郡にて入手】
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チェリオ ワンカップ瓶 [チェリオ]

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チェリオ ワンカップ瓶です。

今回は一風変わった瓶のご紹介です。
お酒のようなワンカップ瓶ですが、そこには確かにチェリオのロゴ。
1970年代〜1980年代頃のものと思われますが
リターナブル瓶や缶の他に、こんな飲料も出していました。

向かって左側の瓶には「オレンジ 果汁50%入り」の表記があり
果汁分の多い飲料や果肉クラッシュ飲料をこのような容器に入れていたようです。
東京地区では、チェリオとカナダドライの販売元が同じだった時期がありました。
カナダドライでも同様のワンカップ入りの果肉クラッシュ飲料を1975年に発売しており
同じものをチェリオブランドでも出したものと思われます。

それまでの重たいリタナーブル瓶よりも軽くコンパクトだったので
登山やハイキングのお供としてよく用いられていたようです。
そのせいか、山で見つかることが多いです。

【チェリオ ワンカップ瓶 神奈川足柄下郡・神奈川県秦野市にて入手】
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チェリオ 200ml 関東地区 [チェリオ]

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チェリオ 200ml 関東地区で流通していた瓶です。

チェリオは一般的な296ml瓶の他に
200ml瓶も製造していましたが、
中京地区と関東地区で瓶のデザインが異なっていました。

今回ご紹介しているのは関東地区の瓶で
山の絵が描いてあります。
1980年代〜1990年代にかけて流通していたようですが
末期は他社に転用されて、炭酸水やサワーの瓶として
出回っていました。

【チェリオ 200ml 関東地区 神奈川県横浜市にて入手】
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