バブルアップ 237ml [マイナー米国ブランド]

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バブルアップ 237ml瓶です。

バブルアップは米国で1921年より製造されている
セブンアップやスプライトのような透明炭酸飲料です。

沖縄ではコカ・コーラ、和歌山では阪井飲料工業、
広島では宝積飲料、千葉ではバブルアップボトリング千葉・・
といった具合に、国内では複数のメーカーが
1960年代前半〜1970年代にかけて
米国の本社より販売権を取得し展開していました。
東京地区では1963年に日本クラリー金銭登録機株式会社が
東京バブルアップ社を設立し、1964年より販売を開始したようですが
なぜレジスターの会社が参入しようとしたのでしょうか。

大資本のコカ・コーラが展開していた沖縄では
「レモン・ライムのキッス」というキャッチコピーとともに
比較的多く出回っていたようですが、
バブルアップボトリング千葉でも
「アメリカで生まれた世界の飲物!」のキャッチコピーで
県内に看板を設置するなどして
当時はそこそこの出荷量を誇っていたものと思われます。
(今回ご紹介している瓶はバブルアップボトリング千葉のもの)

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上部ロゴ部分のアップ。

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底部には1963年製造の刻印。


セブンアップやミリンダレモンライムがライバルだったようですが
1971年のスプライトの発売開始により、勢力を急速に弱めていったようです。
特に沖縄はコカ・コーラ社からの発売だったこともあり
スプライトの登場で完全に重複してしまうため
発売中止にせざるを得ませんでした。

ちなみにバブルアップボトリング千葉からは
ヒットやオーソ等のブランドも出ていました。
特にオーソは、他のメーカーでもバブルアップとセットで
販売されることが多かったようです。

参考:オーソ 237ml瓶
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2021-01-24

参考:ヒット 237ml瓶
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2021-01-03-3


【バブルアップ 237ml瓶 千葉県安房郡にて入手】


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リボンコーラ 190ml [サッポロ]

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リボンコーラ 190ml瓶です。

リボンコーラは日本麦酒(今のサッポロビール)から
発売されていた製品です。

リボンブランド自体は戦前から「リボンシトロン」や
「リボンジュース」として存在していましたが
1961年にそれまで米軍向けや限られた流通ルートのみ
販売許可されていたコーラの原液輸入が解禁となり、
各社がこぞってコーラ製品を世に送り出しました。
同年に発売されたリボンコーラも、その一つというわけです。

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残念ながら表面の印刷はほとんど消えてしまっていますが
裏面にはまだはっきりとリボンコーラの印刷が。

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NIPPON BREWERIESの表記。
1964年にはサッポロビールに社名変更をしているため
この瓶は1961年〜1963年の製造と思われます。


1960年代初頭に各社こぞって発売したコーラ製品ですが、
コカ・コーラ、ペプシコーラの大手や
ローヤルクラウンコーラ等の一部を除いて10年持たずに消えていきました。
リボンコーラも1960年代後半には終売になったものと思われます。

【リボンコーラ 190ml 千葉県安房郡にて入手】


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オーソ 237ml [マイナー米国ブランド]

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オーソ 237ml瓶です。

オーソは、バブルアップボトリング千葉をはじめ
福岡の菊水飲料、和歌山の阪井飲料工業など、
全国の複数メーカーで製造されていた統一ブランドで
グレープやオレンジ、メロン等のフレーバー炭酸飲料でした。
1960年代後半から出回り、一部のメーカーでは1990年代に至るまで
生産が続けられていたようです。

オーソ(O-so)とは、O-so Good!の略で
「とってもいいね!」という意味です。
元々は1946年にシカゴで創業した
Ocra beverage produces社のブランドですが、
日本では透明炭酸飲料のバブルアップを扱うメーカーが販売権を得て、
バブルアップとセットで販売することが多かったようです。

【参考:バブルアップ 237ml瓶】
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2021-01-26-1

今回ご紹介している瓶はバブルアップボトリング千葉が
千葉県内を中心に販売していたものですが、
気になるのは以前ご紹介したヒットとの関係性。

【参考:ヒット 237ml】
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2021-01-03-3

ヒットも同じくバブルアップボトリング千葉の製品ですが
オーソと瓶の形やデザインがまったく同じ。
ヒットは1966年頃より販売を開始したものの、
1年間だけの短命に終わっているようです。

恐らく、翌年の1967年にバブルアップ千葉が
このオーソの国内販売権を取得したことで
それを境にヒットの製造を1年で辞めてしまい
1967年以降はヒットの瓶のデザインをそのまま流用した
オーソの製造を開始したと考えられます。
この瓶を拾った場所ではヒットとオーソの瓶が大量に出てきますが
ヒットは1966年銘のみ存在、オーソが1967年以降とはっきり分かれているため
上記の推測はほぼ正しいものと思われます。

237mlという中途半端な容量ですが、
米国の容量単位「オンス」に由来するもので、約8オンスとなります。


【オーソ 237ml 千葉県安房郡にて入手】

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キリンレモン 340ml 戦前〜1950年代前半? [キリン]

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キリンレモン 340ml 戦前〜1950年代前半?の瓶です。

皆さんご存知、キリンレモンは1928年の発売から今に至るまで
約100年に渡って親しまれている炭酸飲料です。

今回ご紹介する瓶は戦前〜1950年代前半に至るまで
使用された瓶と思われます。
思われます・・・というのは、どうも青すぎるのです。
キリンレモンの瓶は登場時から現在に至るまで
ずっと透明瓶のはずなのですが、この瓶は妙に青い。

この青っぽい瓶でキリンレモンのラベルが貼られた資料も
あるので、確かに使われてはいたとは思いますが・・
戦中、戦後の物資不足でイレギュラーで用いられたものでしょうか。

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上部にはKIRIN BREWERYとKBマークのエンボス。

ちなみに92年続いたキリンレモンの瓶も
2020年12月をもって生産終了になってしまったとのこと。
長い歴史を持った瓶製品が、また一つその幕を閉じてしまいました。

【キリンレモン 340ml 戦前〜1950年代前半? 千葉県安房郡にて入手】
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ツクバジュース 200ml [その他マイナーブランド]

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ツクバジュース 200ml瓶です。

茨城県石岡市の筑波乳業の製品で、会社自体は現在も存続しています。
HPを見ると、戦後すぐの昭和20年9月にジュース製造を開始しているようです。

当初はエンボスのみのデザインでしたが、1960年代になると
この画像のようなプリント瓶が出回るようになりました。
茨城県のみならず千葉県や神奈川県でも見つかっていることから、
ある程度広範囲にわたって出荷していたようです。
1967年には東京進出、1968年には大阪進出をしているようですが
このツクバジュースも出荷されていたかどうかは不明です。

この当時よく見られた、バヤリースによく似た汎用瓶かと思いきや
しっかりとツクバジュースのロゴマークのエンボスが中央部に施された
オリジナル瓶でした。

「ジュース」の表記があるため
1968年の「うそつきジュース問題」の際に
名前を変更したか、そのまま消えてなくなったものと思われます。

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ロゴ部分のアップ。
ミネラル入り、とのこと。

【ツクバジュース200ml 千葉県安房郡にて入手】
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ペプシコーラ 180ml 1958年〜1961年 3色刷り [ペプシコーラ]

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ペプシコーラ 180ml 1961年 3色刷りの瓶です。

戦前〜戦後すぐにかけて、すでに国内にコーラは入って来ていましたが
いずれも滋養目的や米軍向けとして米国から輸入されたものでした。

ペプシコーラの日本本土における本格的な販売の始まりは、
1956年に設立された関東地区の日本飲料が最初です。
ライバルであるコカ・コーラが大手財閥系企業の手により設立した
各地のボトラーで急拡大したのに対し、ペプシコーラは
非財閥系企業の手による拡大だっため、当初より遅れをとっていたようです。

今回ご紹介する瓶は、
その日本飲料が1957年に本土で販売を開始して間もない黎明期のものです。
もともと8オンスの瓶で販売開始されたものの、
すぐにこの6オンス(180ml)に作り替えたようで
この瓶の作り替えも足枷となり
コカ・コーラとの差が開く原因になってしまったようです。
この時点で、すでにコカ・コーラはペプシの2倍の出荷量がありました。

1961年にコーラの原液の輸入が自由化されるまでは、
既存の飲料業界の反発等もあって、バーやボウリング場などにおける
米軍関係者向けの出荷が中心だったようです。

この黎明期の瓶の特徴は、白、赤、青の3色刷りであること。
白、赤の2色刷りの似たようなデザインの瓶もありますが
この3色刷りの方が先に登場しています。
(3色刷りは1958年と1961年の刻印、2色刷りは1962年〜1964年の刻印を確認)

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瓶の上部には複雑なエンボスが。PEPSI COLAの文字が見えます。

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1958年製の瓶の裏面上部にはJAPANの表記。本土で流通していた瓶の証です。
沖縄で流通していたものは「RYUKYU ISLAND」の表記になります。

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1961年製の瓶の裏面上部には、独特な手描き風フォントのカタカナロゴ。
2色刷りの瓶では1962年製造分は同様の手描き風フォントですが
1964年製造分は70年代に流通した瓶で見られる直線的なフォントになります。
(1963年製造分は過渡期のため両方のフォントが混在)

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1958年製の瓶の下部。1961年以降の瓶とは、内容や改行位置が異なります。

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底部。1958年製造を示す「58」の刻印がある。


この瓶は私が中学生の時に出かけた高原教室(キャンプを中心とした宿泊行事)の際、
富士山の麓の青木ヶ原樹海で上部が割れて欠損したものを手に入れ、
初めて存在を知りました。
あれから25年が経った現在、割れていない完全なものを見つけようとしましたが
これがなかなか見つからない。
コーラが日本に普及する草創期の瓶のため、馴染みがなくそもそもの流通量が少ない。
かつ、ペプシコーラの瓶はマイナーチェンジするたびに瓶の形状が変わったため
古い瓶は流用されずに破棄されてしまう、等の理由が挙げられます。
(コカ・コーラは形状が変わらないため、稀に古い瓶が流通することがある)

今回、とある山中で25年の時を経てようやく入手ができましたので
ここにご紹介させていただきました。


【ペプシコーラ 180ml 1958年〜1961年 3色刷り 千葉県安房郡にて入手】
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コカ・コーラ190ml プリント+エンボス瓶 1960年頃〜1965年(4代目) [コカ・コーラ]

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コカ・コーラ190ml プリント+エンボス 1960年頃〜1965年(4代目)の瓶です。

コカ・コーラの瓶と言えば、1990年代に見られた赤いラベルの瓶を除けば
おなじみの緑色の瓶に白文字の、シンプルなロゴプリントが一般的です。
日本上陸前のアメリカ国内で販売されていた瓶や、
戦後の米軍向けに製造されていた瓶はロゴプリントではなく、
瓶自体のエンボスでロゴが表現されたものがほとんどでした。

参考:戦後〜1950年代にかけ米軍向けに製造されていた頃の瓶(2代目)
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2021-02-21-1

1961年、様々な規制や圧力を乗り越えて
日本国内でいよいよコカ・コーラが一般大衆向けに発売されるにあたり
アメリカの例に倣ってエンボスの瓶が投入される予定でしたが、
CM放映の際にエンボスだとロゴがよく見えなかったようで
国内販売は急遽ロゴを白文字プリントにした瓶でスタートしました。
(ただし、ロゴ下の「登録商標」の文字はエンボスのまま)
今回紹介する瓶は、その際に製造されたものです。

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1960年から1965年まで製造されたようですが、
私が所有しているのは1962年〜1964年の製造分。
1961年と1965年製造分も山中で見つけたことはあるものの、
いずれも割れていたため拾っては来ませんでした。

この瓶は底部に64の刻印があり
1964年製であることがわかります(見づらいですが・・)。
コカコーラの瓶は胴部に製造年が刻印されるのが一般的ですが
この時代の瓶だけは底部への刻印でした。

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1961年製造瓶の底部刻印。
1960年、1961年製造瓶は滅多に見つからないので、割れているのが残念。

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1962年製造瓶の底部刻印

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1963年製造瓶の底部刻印

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1965年製造瓶の底部刻印。
こちらも滅多に見つからないのだが、割れているのが残念。

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一般的に製造年が刻印されている位置には190ML.入の刻印が。

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ちなみに、本来であれば「コカ・コーラ」のカタカナロゴの真下に
「登録商標」の表記が来るのですが
この瓶は「Coca-Cola」の英文字表記の下に来ており、さらに少しずれています。
いわゆるエラー瓶の一種です。
同様に、裏側の「コカ・コーラ」のカタカナロゴの下には
「TRADE MARK REGISTERED」の表記がずれて刻印されています。
両方ともプリントの瓶や、両方ともエンボスの瓶ではあり得ないエラーですが
この瓶のようなプリントとエンボスの組み合わせだからこそ
起こったエラーと言えます。

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本来は「コカ・コーラ」のカタカナロゴ下に「登録商標」の文字が来る。


この瓶は1965年までの生産が確認されていますが
1964年〜1968年の間は需要が急増した時期で
様々なタイプのコカ・コーラ瓶が製造されました。
本来初代の瓶として投入する予定だったエンボスのみの瓶も
1964年から急遽製造されました。
参照:コカ・コーラ190ml エンボス瓶 1964年〜1968年頃(5代目)
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2020-06-29

【コカ・コーラ190ml プリント+エンボス瓶 1960年頃〜1965年(4代目) 千葉県安房郡にて入手】
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ヒット 237ml [その他マイナーブランド]

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ヒット 237ml瓶です。

ヒットは、バブルアップボトリング千葉が製造していた飲料です。

バブルアップは米国で戦前より製造されている
セブンアップやスプライトのような透明炭酸飲料で、
これを国内でも展開しようと1963年に設立されたのが東京バブルアップ社でした。
バブルアップボトリング千葉も、ほぼ同じ頃に設立されたものと思われます。
全国各地で同様の動きがあり、特に米軍統治下にあった沖縄では
コカ・コーラ社が販売代理店となっていたこともあり
バブルアップはそれなりに出回っていたようです。
バブルアップ千葉も、県内に看板を設置するなどして
そこそこの出荷量を誇っていたものと思われます。

【参考:バブルアップ 237ml瓶】
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2021-01-26-1

バブルアップとともに発売されていたのが今回紹介するヒットですが、
千葉エリアのみの展開だったのか、
その他のバブルアップボトラーでも展開されていたのかは不明です。
味はグレープやオレンジ等のフレーバー炭酸飲料だったものと思われます。

底部には1966年の銘がありますが、
十数本見つけても他の年のものは見当たらないので、
おそらく1年限りの製造に終わったものと思われます。

その理由は、翌年の1967年にバブルアップ千葉が
O-SO(オーソ)というアメリカのフレーバー炭酸飲料の国内販売権を
取得したことにあるようです。
それを境にヒットの製造を1年で辞めてしまい
1967年以降はヒットの瓶のデザインをそのまま流用した
O-SOの製造を開始したと考えられます。
この瓶を拾った場所ではO-SOの瓶も大量に出てきますが
ヒットは1966年銘のみ存在、O-SOが1967年以降とはっきり分かれているため
上記の推測はほぼ正しいものと思われます。

ちなみにO-SOはアメリカのブランドということもあり、
バブルアップとともに全国でそれなりに出回っていたようです。

【参考:オーソ 237ml】
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/2021-01-24

237mlという中途半端な容量ですが、
米国の容量単位「オンス」に由来するもので、約8オンスとなります。


【ヒット 237ml 千葉県富津市にて入手】

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三ツ矢サイダー 340ml 1933年〜1940年代 大日本麦酒時代 [アサヒ]

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三ツ矢サイダー 340ml 1920年代〜1930年代 大日本麦酒時代の瓶です。

三ツ矢サイダーについての詳細はひとつ前の記事を参照してください。
参照:三ツ矢サイダー 340ml 1920年代〜1930年代 日本麦酒鑛泉時代
https://me-young-sitter.blog.ss-blog.jp/archive/c2300733128-1

今回紹介する瓶は、ひとつ前の記事で紹介した日本麦酒鑛泉から
1933年に大日本麦酒に販売主体が変わった後の三ツ矢サイダーの瓶です。
大日本麦酒は、戦後のGHQの指示による過度経済力集中排除法に基づいて
1949年に解体され、三ツ矢サイダーの製造は朝日麦酒(アサヒビール)が受け継ぐ事になりますが
この瓶自体は戦後物資供給が安定するまではしばらく使用され続けたものと思われます。
この瓶も昭和30年代のゴミが多く発見される区域で見つけたものです。

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瓶の上部には大日本麦酒の略称であるDNBのエンボス。

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瓶の下部には大日本麦酒株式會社のエンボス。
日本麦酒鑛泉時代のものにはあった三ツ矢マークはありません。
大日本麦酒は現在のアサヒビールとサッポロビールの前身であることから
現在はサッポロ飲料から販売されているリボンシトロンも
当時はこの瓶を使用していたため、特定の商標を入れることを避けたのでしょう。

実際に出荷される際には、胴部に三ツ矢シャンペンサイダーや
リボンシトロンと書かれたラベルが貼られていました。


【三ツ矢サイダー 340ml 1933年〜1940年代 大日本麦酒時代 千葉県安房郡にて入手】
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三ツ矢サイダー 340ml 1920年代〜1930年代 日本麦酒鑛泉時代 [アサヒ]

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三ツ矢サイダー 340ml 1920年代〜1930年代 日本麦酒鑛泉時代の瓶です。

言わずと知れた老舗ブランドです。
三ツ矢サイダーは、兵庫県川西市に存在した平野鉱泉を用いて
三菱財閥系の三菱商会が「三ツ矢平野水」という名で製造をしたのが始まりです。
平安時代、源満仲が住吉大社のお告げに従い
3本の矢を放ったところ、この平野の地に刺さり城を建てたことが
三ツ矢サイダーという名の由来です。

その後、三ツ矢平野礦泉、帝国礦泉と販売主体が代わり
1921年に帝国礦泉が日本麦酒鑛泉に買収されます。
今回紹介する瓶は、この日本麦酒鑛泉時代の瓶で、今から約100年ほど前のものです。
1933年に大日本麦酒となるまで製造されましたが、
戦後物資供給が安定するまでは使用され続けたものと思われます。
この瓶も昭和30年代のゴミが多く発見される区域で見つけたものです。

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瓶の下部には三ツ矢マークと日本麦酒鑛泉株式會社のエンボス。


実際に出荷される際には、胴部に三ツ矢シャンペンサイダーと書かれた
ラベルが貼られていました。


【三ツ矢サイダー 340ml 1920年代〜1930年代 日本麦酒鑛泉時代 千葉県安房郡にて入手】
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